この記事は、『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)に連載されたものを、編集部のご好意により許可を得て、著者の責任において転載しています。

『通訳・翻訳ジャーナル』(イカロス出版発行)1998年1月号

文科系のための科学講座

遺伝子工学編

【1】

遺伝子工学の歴史

-- 遺伝子工学はどのようにして誕生したか? --

 最も広い意味でバイオテクノロジーとは、生物の体や生物によって作り出される産物を、人間の健康や暮らしに役立てるための技術である。単に生物を育てたり捕獲したりして食べるという、古来の農業・漁業・畜産業を別にしても、微生物を培養してその産物を食品に利用するという発酵は、紀元前数千年の時代から、ビールの醸造やパンの製造に応用されてきた。また、人間にとって優れた性質をもつ作物や家畜を作り出す、育種あるいは品種改良とよばれる技術も、古代から行われてきた。しかし、そのような伝統的な生物利用技術では、発酵をつかさどっている遺伝子や、生物に特定の性質をもたせている遺伝子の実体は知られておらず、遺伝子の働きに人間が介入する方法も、ごく間接的なものに限られていた。現在、バイオテクノロジーとして脚光を浴びているのは、生物の遺伝子にじかに手を加える技術である。後に詳しく述べる予定だが、遺伝子の実体はDNAという物質である。このDNAを分析し、異なったDNAの間で組換えを行い、あるいは望ましい構造をもったDNAを合成したりすることによって、たとえば細菌の細胞に人間のホルモンを合成させたり、耐病性に優れた作物を作り出したりすることが可能になっている。そのような技術を総称して遺伝子工学という。

 遺伝子工学の歴史は、当然、遺伝子の発見より過去には遡らない。遺伝子という概念は、1865年にメンデルが発表した遺伝の法則によって確立された。メンデルは、エンドウの豆の色や草丈といった、親から子へ伝えられる形質を研究して、その遺伝の背後になんらかの因子があるものと考えた。しかし、生物のどこにあるのかもわからず、実体が何であるのかもわからなかった遺伝子という概念の価値が、科学者に広く認められるようになるまでには、さらに数十年が必要であった。

 生物の体が細胞でできていることは、1610年にフックがコルクの断面を観察したことによって発見された。1830年代から1850年代にかけての多くの研究によって、細胞は、すべての生物のすべての組織を作る基本構造であるということが明らかになった。生殖細胞(卵・精子)もまた1個の細胞であり、体細胞(体を作っている大多数の細胞)が1代で死に絶えるのに対して、生殖細胞は個体の死後も生き延びて次の世代を生み出す。個体のもつすべての遺伝子が、生殖細胞に由来し、生殖細胞によって次代に伝えられることは明らかであった。しかし体細胞もまた、それぞれが完全な1組の遺伝子を持っていることが、後の研究で明らかになった。たとえば皮膚になる細胞は、皮膚になるための遺伝子だけをもらうのではなく、骨になるための遺伝子や血球になるための遺伝子もすべて持ったまま、皮膚の細胞へと分化する。

 核酸は、1868年にミーシャーが発見した。包帯に染みた膿を分析して、そこに含まれていた未知の物質を研究したものであり、この物質が遺伝子に関係しているとは、当時は推定すらされなかった。細胞の核に含まれている酸性物質であるため核酸と名付けられた物質は、やがて大きく分けてデオキシリボ核酸(DNA)とリボ核酸(RNA)の2種類があることがわかる。

 メンデルの法則は、1900年に、ド・フリースらによって再発見される。これが、科学としての遺伝学の始まりであった。1902年には、遺伝子が細胞核内の染色体に含まれているという説が、サットンによって提唱され、それまで単に因子とよばれていたものに、初めて遺伝子(gene)という用語が与えられた。1910年代にモーガンは、染色体上の遺伝子の配置を詳しく研究した。バイオテクノロジーという言葉は、この頃に始まる。

 1944年にアヴェリーは、DNAが遺伝子の実体であるという大胆な仮説を発表したが、当時は誰も振り向かなかった。論争の末、1953年にワトソンとクリックが、DNAの二重らせん構造を発表した。遺伝子の実体を操作するという、現代の遺伝子工学のすべては、この発見から始まる。

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